ふなとたなごと

家で釣って来た湖沼の魚やエビを飼っていました。

ふなとたなごとクチボソと。

あとヌマエビ。

 

まず、ヌマエビがエサとして食べられてしまい、次にクチボソ同士が争いで亡くなりました。うまくやっていた、たなごは繁殖期に入ってメスを取り合い死んでしまいました。

 

一番平和なのはふな。ふなは両性具有っぽいです。

 

いまの若者が男子は草食、女子は肉食になってバランスをとるのも、自然の摂理なのかなって思いました。

行き場を失いかけた狩猟本能

古来、人間のオスは狩猟を担い、メスは巣である洞穴で家族を守っていたという説を昔はやった本で読んだ。

話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く | アラン ピーズ, バーバラ ピーズ, Allan Pease, Barbara Pease, 藤井 留美 |本 | 通販 | Amazon

 

この本を読み切りかけた状態で八王子の松屋に忘れたことを今思い出したが、それは本題と関係ないので割愛。八王子時代ということは10代だったなぁ、あの年齢にして男女の脳の構造差を考えざるを得ない状態に追いつめられていたのは、あの女子との…やっぱり割愛。

 

そんな本のことを思い出したのは、先日の同一週末に二回目の釣りに出かけた帰り道のことだった。そもそも釣りに凝りだしたのは3年前。仕事の配置転換で土日に休めなくなり、一人でできる趣味を模索して中学時代以来の釣りにたどり着いたのだ。最初は近所の湖沼でフナやタナゴを釣っていた。それが高じて気がつけば月2回は海へ繰り出す日々。最初は喜んでついて来た子供が、今は返事を渋るようになっている。

 

今年のシーズンインは6月。実は、私のメインターゲットはアジ、それも、なりふり構わない初心者向けと一部では蔑まれるサビキ釣りを必ず併用した堤防からの、エサ釣り、アジングなのだが、なんと今年は一度もアジの群れに出会えていなかったのだ。その結果、初めての三浦半島遠征、トリックサビキデビュー、朝マズメ・夕マズメ連チャン(つまり一日中)、アジパワー投入など、考えられる全ての対策を講じたが、去年あれほど釣れたアジが全く釣れない。しかも悔しいのは、同じ釣り場で少数ながらアジが上がっているのだ。つまり自分がへたくそだということが嫌という程、毎週のように証明され続ける日々を送って来たのだ。三ヶ月ちょっとも。。。

 

ところが、先週末は釣れた。金曜の夕マズメから日没まで、ずっと釣れた。

(何も変えていないのに!)

 

そうした所、業を煮やして予定していた翌々日の釣行が、なんとも心の余裕が漂う、海を楽しむ素敵な1日になったのだ。

 

思えば、今年になって仕事が変わり、その仕事がまた、上の顔色だけを伺って気だけ使っていればよいとクソみたいな仕事で、私は本当に行き場の無い情熱を釣りに傾けていたのだ。そしてその釣りでさえも報われない日々。それが報われた瞬間。そう男には、そして自分には狩猟本能があるということと、それが満たされる瞬間が確かにあるということがここで確認できたのだ。どうやら年に1回くらい満たされると、僕の狩猟本能は満たされるらしいということも分かった週末だった。

 

狩猟本能は即、生きる本能で、それがなくなったらおしまい。

しばらく釣りで発散しつつ、行き場を失いかけた狩猟本能をなだめてやろうと思った。

「2番じゃダメなんですか?」に自分ならどう答えたか?

もう随分と昔のことに感じますが、かつて事業仕分けというのが民主党政権下で行われ、某スーパーコンピューターの事業に関して世界一を目指して予算が確保されていた件で「2番じゃダメなんでしょうか?」という質問をされた国会議員の方がいました。その発言シーンはテレビでもネットでも繰り返し取り上げられました。

 

実際に世界一とまでは言わなくても、競争環境の中で1番を目指している人は多くいて、特に仕事で1番を目指して生存を賭けた熾烈な競争を戦っている人というのは結構な数いると思います。例え自覚は無くても、地域で1番とか、ある業態や業界でのサービスが1位と評価されないと2番目以降はお客さんに思い出してももらえないというのは良くあることなので、みんな競争していれば何らかの1番を自ずと目指しているのでは?と思っていました。そんな当然だと思っていたことに、最も1番にこだわっていそうな人(そんなイメージのある人)の口から、この質問が投げかけられたことで改めて、このコトに対して考えるきっかけをもらった気がしました。「2番じゃダメ、1番を目指そう」という心のあり方の何が大事なんでしょうか?

 

僕以外にも多くの人が引っかかったようで当時はツイッターやブログで、多くの反響がありましたが、読んでみるとどれもこれも、この議員さん個人に対する感情に力が入ってしまい、僕が納得できる「2番じゃダメな理由」を客観的に答えている人が見当たりませんでした。個人への評価は切り離して、「2番じゃダメ?」にキレッキレの反論ができない自分にモヤモヤしていた僕は、その後も答えを探し求めました。ずいぶん時間がかかっちゃったけど、ようやく言葉にできたので今日は書きます。

 

まず、1つ目の反論は、既にちょっと書きましたけど2番目以降は人の印象に残らないからというものです。ただ、こういうアプローチって提供する側というか選ばれる側の切迫感というか、切実さに同調してくれる器量を持った人にでないと、理解してもらえない可能性があるなぁと思いました。あまり頻繁にお目にかかることは無いですが、勉強でも仕事でもスポーツでも負けなしという挫折知らずのスーパーエリート、もしくは自称スーパーエリートの勘違い野郎に「ふーん、そういうもんなんだ。下々の気持ちはよく分からんけど」と言われたら、説得しきれない論拠だなと不安が残ります。それと、この事業仕分けでも言われていましたが、事業や活動そのものの価値を否定したいというアプローチの人に対してもちょっと弱いと思いました。「別に印象に残らなくても良いじゃん」という関心すら薄めた上辺だけの丁寧な態度に、感情的にならずに応戦するためには、もう少し別の手を用意した方が良さそうです。

 

そこで僕は身近な”2番じゃダメな例”を探してみました。それが袋麺のインスタントラーメンである「ラ王」と「正麺」の差です。この両者は私の調べでは5袋入りで価格に100円程度の差があります。そしてその状態が、長年維持されており、消費者も流通業者もその価格差を認めて、各々の事情とかニーズに応じてラ王と正麺を選び分けているように思います。私の味覚で特に麺の質感に注意しながら味わうと生麺に近いおいしさを備えているのは圧倒的にラ王です。正麺はラ王に近づけて類似品として磨き込んでいる印象があります。本当は、開発者に聞いたらそうではないのかもしれないですが、発売もラ王が先だったので、後から発売した正麺は、どんなに意識的にラ王のことを見ないようにしていても、ついつい見てしまうのです。コンセプトを後追いしてしまうことを宿命づけられるのです。また、先行して特許を抑えられてしまい、そういった制約も後発の商品にはつきまとっていると思います。一方で、ラ王を開発した人たちのメンタリティを考えてみると、きっと生のラーメンの麺がおいしく感じる人間の感覚って、どこから来ているんだろう?っていう研究を自分たちで想像力を広げながら、かなり深く広くやったんだと思うんです。小麦の香り、スープとの絡み方、歯触り、唇との接触感、たまごの主張、これらをインスタントで再現して、お客さんに「おいしいっ!!」って驚いてもらうためにはどういう商品にしなければいけないか?って考えたと思うんです。この両者の差が、どれだけ歴然としているかは、モノ作りに携わる人とか、自分自身も常に勝負している人には、きっと分かると思います。

 

この僕が2番目に挙げた理由も、きっとエリートとか活動そのものをつぶしに来る人には伝わらないと思うんですが、それでも僕はこの理由を採用しようと思います。それは、この差が分からない人には僕がやっていることの評価なんて一切してほしくない!ってきっぱり思えるからです。これが理解できない人は、その瞬間は何かの理由でエリートだったり、僕を評価する側の高い席に座っているかもしれないけれど、必ずや、その場所に居続けることができない人だと思います。これは世の中の真理です。だって、その人は何かの競争で負けた時に勝ち方を1から創造するということの偉大さに経緯が払えない人なんです。長い人生がそれでやり過ごせるとは、僕にはとても思えません。

 

なので、最低限、その人が話し合う値打ちのある人かを見極められるという意味で、こんな反論をしてから切られるなら切られたい。価値の無い人とそれ以上関わってつまらない思いを積み重ねたくない。それが、ああいう場で、あのように言われた時に僕が取るべき態度なんだと確信しました。

 

いま悩んでいる誰かの参考になったらいいな。

資料の手垢

その昔、とある部署に異動したばかりのこと。異次元からやってきたようなモノの考え方、モノのまとめ方をする同僚と出会いました。彼は小さなコンサルティング会社出身で、その出身会社は聞いたこともない会社でしたが、超大手のクライアントを相手にして、かなりのハイレベルな仕事をしていたようでした。彼の前で、まだまとまっていないアイディアや論点をぶちまけると、たちまち概念の大小を見極め、上下の流れや左右の位置関係を整理してチャートにしてしまい、次に考えるべきこと、とるべきアクションを不思議と整理してしまうんです。そんな能力者はこれまでお目にかかったことがなく、僕がコンサルタントという仕事を見直すきっかけをくれた人です。ああ、僕がこれまでやってきたロジカルシンキングって、本当にお遊びなんだなと最初は絶望さえしました。

 

でも、彼はとてもいいやつで、どう考えればそのような整理が一瞬でできるようになるのかをわざわざ自分の時間を割いて僕たちにこんこんと教えてくれました。彼の指導の甲斐があり、僕たちはコンセプトを扱うということの技術を学ぶことができました。それはありとあらゆる仕事で威力を発揮し、世界中のどんなコンセプトのプロを相手にしても互角にやれるんじゃないか?とすら思える自信を僕たちに与えてくれました。

 

そんな彼が自ら作る資料は常にとっても分かりやすく、これ以上ないくらいコンセプトの整理がされており、誰が見ても結論はシンプルでぐうの音もでない仕上がりでした。しかもデザインも素敵でおしゃれ。ただ、それがそのまま通らないのが日本の会社の限界だったんですね。よく「上からモノを言われている気がする」とか、「タイポロジーだ」とか「学校のお勉強を聞きに来てるんじゃないんだ」とかいって突き返されることがありました。その時に僕は彼に「オジさん達には、もっと手垢がついた資料が安心なんだよ」と言ったんです。この「手垢」という言葉を彼は覚えていてくれて、その後も時々、自分の資料がうまく理解されない時に「手垢が足りないんですかね?」みたいに使うんですが、実はうまく理解されていないなと感じていました。しかし、私の言葉のスキルが足りなくて、うまい説明ができずに数年が経っていました。

 

でも今朝、不意に言葉にすることが出来たので、ここに書き留めておきたいんです。

 

それは電車の中で、今の部署の上司が「俺は担当しか信じない。管理職は嘘ばかりつく。」と言っている理由を考えていた時にひらめきました。実は今の部署の、前の上司も、前の前の上司も、そのまた前の上司も同じように管理職を信じず、必ず担当者が使っている資料や帳票を担当者本人と確認してからトップに報告していたんです。なぜ、上司達は判で押したようにそうなってしまうのか?と考えると、このトップと上司達の関係に問題があったのです。このトップが細かくて厳しくて、それはそれは精神的にみなさんギリギリになっていました。そのせいで、どうせ切り捨てられるなら自分が納得できるように細部まで自分で確認してた上で納得ずくで切られたいって無意識に思っちゃうみたいなんです。だから正確に表現するなら「担当しか信じない」んじゃなくて、「自分が担当になったつもりで確認したことじゃないと報告したくない」んです。

 

で、すごく時間と労力をかけて調べた事実を、本当はそんな細かいことを説明していたら役員とか取締役とかには細かすぎるんだけど、自分を落ち着かせるために痕跡として残してしまう現象が起こる。その痕跡のことを僕は「手垢」と表現していたんです。読み手には不要な手垢が、実はその人が頑張って調べて、頑張って考えた証拠としてトップに評価もされていたんですね。これでは成果主義は遠いです。日本の組織の生産性が低いひとつの原因が、正にここにあります。

 

そんなマイクロコントロールのトップ、日本には多いと思います。ところがマネジメントがなすべきは実は逆だと思います。複雑なことをシンプルに、シンプルに理解してより広い範囲で見て最適な判断をすることだと思います。なので、僕にコンセプトを教えてくれた同僚と、その時の仲間達の時代が早く来ればいいなと思っています。

 

 

 

 

ル・マン24時間レース

今年も見ちゃいましたね、ル・マン

全く疑いもせずにトヨタが勝つだろうと思ってみていました。日本時間の土曜日22時からスタートして、翌朝6時近くまで見て3時間程眠ってしまい、目が覚めるとトヨタがいなかったです。日曜の夜にまた見始めたらポルシェの1号車がユノディエールの入り口でスローダウンしていてロッテラーが相変わらず戦意をキープした鋭い視線でのろのろ運転しているから、これ何かあってもポルシェはピットまで帰れる仕様のクルマに仕上げていてバッテリーセーブモードが超優秀なの?という誤解をしてしまいましたが、やっぱりそんなことはなく、最後は止まってしまいました。

 

やっぱりクルマとか機械の信頼性って、膨大なデータとか多様な経験の積み重ねで作られるもので、熟成されるもんなんですね。トヨタも30時間の走行テストを7回しているとテレビで言ってましたが、本番の1回とテストの7回はやっぱり違う訳です。乗っている人、クルマを作っている人、応援している人の気持ちが載った時にクルマが耐えられるのか?それが人がレースをやる以上問われるということなんですね。人を乗せて走るクルマですから、そういう鍛えられ方をするのが自然なんじゃないかなとぼーっと見ていて思いました。

 

そこにいくとポルシェってやっぱり凄い。ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも、多くの耐久レースに車両が使われているから耐久レースというのを熟知している感じがする。強いという表現が多くの人によってされていますが、強さってそういう場数とか人の経験だったりする訳ですね。ドイツでインダストリー4.0という動きが進んでますが、ポルシェはそっちに舵を切っているのか、それとも未だに人の感覚を生かしているのか、、、きっとトヨタは、またル・マンに必要な強さを一生懸命に各種の数値に落として目標を設定して頑張ると思うんですよ。それに対してポルシェとか、ル・マンは出ていませんがアウディとかBMWといったドイツ勢はどうやって強さを得ているのか?知りたい所ですね。人の肌感覚とデータが融合してるんだろうな、きっと。

 

そうだとすると、日本のモノ作りは早晩全滅しかねませんぜ。トヨタ頑張れ。

さて、次は松山君の全米OPを応援しつつ会社に行かねば。

 

規定演技と自由演技に向けた心構え

築地市場の安全性の議論を見ていて、過去に自分が建材の営業担当時代に経験した深刻なクレームのことを思い出しました。詳細は言えないのですが、当時の業界水準に照らして妥当、もしくは少しレベルの高い仕事をして施工・納品したところ、後から「将来の世界水準を語る施設責任者」が納品先に登場し、我々の仕事の否定をはじめたのです。入札時点で設定された要件と、施工後に求められている要件が大きく乖離していることを丁寧に説明したのですが、その施設責任者の高ぶった感情は収まらず、製品の些細な瑕疵を列挙し始め、元請けのゼネコンを巻き込んで建物全体を受け取る受け取らない、つまりお金を払う払わないの話になって大きな問題になってしまったことがあります。あの高ぶった感情は、おそらく着任早々に自分の存在感を示したいという気持ちと正義感がミックスした高揚感だったんだろうなと今から見て思います。(その瑕疵に対する説明を当時の会社の技術トップが「原因を説明できない、だから対策もできない」とお客の前で放り投げてしまったことから、私はその会社に見切りを付けて転職することになったのですが、その話はまた別の機会に。)

 

この案件も公共施設だったんですが、築地の状況と良く似ているんです。後から任命されて前任者のやったことを少し批判的に点検しなければならない立場の人が、フレッシュな目で見て批判できることをできるだけ事細かに列挙して批判すると、こういう問題は簡単に作れます。本人は作っているつもりは毛頭ないと思いますが、客観的に見ると問題を作っていることになってしまいます。

 

世の中のお仕事にはルーチンなものとクリエイティブなもの、仕組みに落とし込んで効率を追い求めることに価値がある仕事と創造的に取り組んで新しい発想を生み出すことに価値がある仕事、フィギュアスケートで言うと規定演技と自由演技というのがあると思います。この二つの仕事に求められていることの違い、ルールや採点方法の違いが理解され、お互いに尊重されないままに同じ土俵で採点を始めてしまうと解決の出口は閉ざされてしまうのです。数学で言ったら解がない問題の解を探すような状態になります。問題を作ったご本人はとびっきりの難問に挑んでいる高揚感を味わえるのが厄介ですね。

 

食品の衛生管理に関して言えば、90年代後半に日本でもHACCPというアメリカのNASA発祥の管理手法が導入されています。HACCPはHazard Analysis and Critical Control Pointの略で重要な管理ポイントを作業工程の分析によって絞り込んで管理しましょうという思想の管理手法です。衛生管理という日常業務を仕組み化して規定演技に落とし込み効率よく取り組みましょうという考え方です。この考え方を元に、現在はセンサー技術が発達していますので食品の安全管理の手法自体は、プロ達の手によってかなりレベルの高いものになっていると思っています。この手法の部分に疑問符をつけるのは、よく勉強してからの方がよい気がします。

 

見ている人に向けたパフォーマンスは自由演技の領域で、やろうと思ったらいろいろな表現方法があり、対象者も多様なので、バリエーションの開発にはきりがない世界です。なので、そのルールと規定演技のルールを混同して、いつまでも100点満点の演技を探していたら結論は出ないかもしれないですね。

 

個人的には日本中の海や山や畑や水田で穫れた自然な食材が集まってくる市場の施設としては豊洲は立派な気がしますし、安全だと思ってよい状態な気がします。食材自体の汚染は現在も100%防げていないんじゃないかと思います。私たちはその可能性も納得して、自然のものをいただいているんじゃないんですかね?その納得の上であれば豊洲で十分だと思いませんかね。

 

小池さんに好感は持っているので、ぜひ行政のプロとしてスマートな決定をしていただきたいと思います。おそらく都庁にお勤めの方、築地市場の関係者、豊洲の関係者もみなさん都民ですから、早めに決めてあげることが本当の都民ファーストである状況だと私は思いますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人徳ってなんですかね?

人徳とか徳ってよばれるものの正体って何だろう?

そして、あの人(主に上司)には何故それが大事なところで感じられないのだろう?

 

そんなことを真剣に考える日が会社勤めをしていると3〜5年に1回くらい来ませんか?実は今はその時期になってまして、ここ一ヶ月くらい考えています。

 

一緒に仕事をしていて、誰かと信頼関係を作ろうと思ったら仕事でしてもらった以上のことを返すキャッチボールを続けるというのが常套手段なんじゃなかろうか?と思っているんですが、時々この人の良心を悪用するというか持ち逃げするタイプの人と一緒に仕事をすることがあります。私はそういう持ち逃げするタイプの人をバンパイアだと思うことにしています。


良心など、すぐに個人の経済的な事情に押し流されてしまう現代社会にあって、いかに良心を保ち、付加価値を加えた仕事のパスを回し、良いパスの受け手であり続け、よいパッサーであり続けるかは日々試されていると思います。特に会社のような経済的な合理性を追求する集団に所属すると、やがて個人の経済合理性を極大化することに腐心するバンパイアのような人が生まれるのは仕方の無いことかもしれません。そして、そのバンパイアは一人の人間の心の奥に産声を上げることもあるし、集団としてのバンパイア文化を生み出してしまい、その集団の中で他者と同じようにバンパイアとして生きるか、はたまた人間としての理性を保つかということを所属する成員一人ひとりに、仕事の判断の細部にわたって問いかけてくることもあります。これはこれで一つの文化なんでしょうけど、私はそういう空気を極力さけて今まで生きてきました。

 

必要があって、なおかつどこかで分かってもらえそうであれば、バンパイアと戦っても来ましたが、私の持っている十字架やニンニクや聖水では太刀打ちできないことも多く、そんな時は迷わず逃げることにしています。まさに「逃げるは恥だが役に立つ」と考えるようにして全力で逃げます。だって、仕事のアウトプットの大きさは「能力×やる気×考え方」という公式に表せるっていうじゃないですか?そして、この「考え方」のパラメーターは+(プラス)ばかりではなく−(マイナス)になることもあり得るのです。私から見ると、個人の評価の最大化を目指して人の仕事の成果を食いつぶす仕事の進め方は「考え方」として組織が本来目指すアウトプットに対してマイナスに働くように見えてしまうのです。だって、そういう「考え方」で仕事を押し付けられると、仕事に対してモチベーションが上がらないとか、気が進まない仕事を押し付けらている被害者意識とか、自分がやっていることが無駄に思えるとか、そういう負の空気が職場を覆って会社のためにならないじゃないですか?しかも、自らが頑張れば頑張る程に負のスパイラルを加速させてしまうという状態になるのです。これって組織としてダメですよね?

 

こういった状況に追いつめられて、精神を病んでしまう人が現れる現場を何度も目撃してきました。そしてそんな状況を見ると、私も滅入ってしまうんです。なので止むに止まれぬ気持ちで発生源のバンパイアに苦言を呈するとか、上司であれば相談の姿勢を示しながら気付いてもらう努力をしたりするのですが、これが難しい。価値観の問題ですからね。

 

そうした状況が目に見える形で自分の目の前に隆起した時に、自分がどう振る舞うべきか?という問題に関しては私としては、もう結論が出ています。まずは全力で逃げることを考える。これは異動や転職も含めて最大限に可能性を探ります。それが叶わない場合は「私は私の人生を生きている。」ということを会社でも意識することにしています。さっきの仕事のアウトプットの公式でいう「考え方」のところの判断軸を会社というか組織に合わせることができないのであれば、もう自分の軸を優先させてしまう。私の目指す所と会社の目指す所が同じであれば、そういう課題には積極的に協力するが、そうでないと自分が思う場合は、いち雇われ人として上位職者の指示に従うというドライなスタンスを貫くことにしています。スタンスを決めることで自分の精神の安定を守ることにしています。決めたスタンスに沿っているかを客観的にチェックする自分を出現させて守る感じですかね?もちろん権限に基づいた具体的な業務指示には従順に従います。雇われ人として。

 

厄介なのは、このバンパイアになった上位職者の性向に職場のみんなが気付き始めて、少しずつ仕事のアウトプットを出し惜しみ(というか出せないんですけどね)しはじめた時に、血液が不足したバンパイアが自分を見失ってのたうち回ることです。これは本当に厄介です。どういうコトかというと、多くの場合は、もし成功したら評価が高いであろう無茶な仕事に手を出して、成功した時は自分の手柄に、失敗したら部下や他人のせいにできる体裁を整え始めます。途中経過の報告も最大限、上へのアピールに使い始めます。こうなると、もう上司だと思ってはいけません。無茶な仕事を自分で作っちゃう訳ですから。私は、そういった課題を押し付けられそうになったら、熨斗(のし)を付けて押し返すか、押し返せない時は前述のスタンスを守って言われたことだけやる消極的な担当者を演じるようにしています。熨斗をつけて押し返すというのは、その課題を成果が上がりそうなおいしい仕事に見えるように一旦は仕立て上げて、そのバンパイア上司に「よし、この件は俺がやる」と言わせることをいいます。手柄を急いでいるので、バンパイアは細かい問題点には気付かないことが多いです。なのでこんなやり方がおすすめですね。

 

最初の話に戻って、やっぱり人徳っていうのは難しいですね。何なのかも分からないし、教えてあげられないし、自分で人との関係の中で掴むモノなんでしょうね。本当に難しい。でも、誰かが見ていて私のやり方から何かを学んでもらえるように、耐えながら続けて行こうと思っています。2017年現在。