資料の手垢

その昔、とある部署に異動したばかりのこと。異次元からやってきたようなモノの考え方、モノのまとめ方をする同僚と出会いました。彼は小さなコンサルティング会社出身で、その出身会社は聞いたこともない会社でしたが、超大手のクライアントを相手にして、かなりのハイレベルな仕事をしていたようでした。彼の前で、まだまとまっていないアイディアや論点をぶちまけると、たちまち概念の大小を見極め、上下の流れや左右の位置関係を整理してチャートにしてしまい、次に考えるべきこと、とるべきアクションを不思議と整理してしまうんです。そんな能力者はこれまでお目にかかったことがなく、僕がコンサルタントという仕事を見直すきっかけをくれた人です。ああ、僕がこれまでやってきたロジカルシンキングって、本当にお遊びなんだなと最初は絶望さえしました。

 

でも、彼はとてもいいやつで、どう考えればそのような整理が一瞬でできるようになるのかをわざわざ自分の時間を割いて僕たちにこんこんと教えてくれました。彼の指導の甲斐があり、僕たちはコンセプトを扱うということの技術を学ぶことができました。それはありとあらゆる仕事で威力を発揮し、世界中のどんなコンセプトのプロを相手にしても互角にやれるんじゃないか?とすら思える自信を僕たちに与えてくれました。

 

そんな彼が自ら作る資料は常にとっても分かりやすく、これ以上ないくらいコンセプトの整理がされており、誰が見ても結論はシンプルでぐうの音もでない仕上がりでした。しかもデザインも素敵でおしゃれ。ただ、それがそのまま通らないのが日本の会社の限界だったんですね。よく「上からモノを言われている気がする」とか、「タイポロジーだ」とか「学校のお勉強を聞きに来てるんじゃないんだ」とかいって突き返されることがありました。その時に僕は彼に「オジさん達には、もっと手垢がついた資料が安心なんだよ」と言ったんです。この「手垢」という言葉を彼は覚えていてくれて、その後も時々、自分の資料がうまく理解されない時に「手垢が足りないんですかね?」みたいに使うんですが、実はうまく理解されていないなと感じていました。しかし、私の言葉のスキルが足りなくて、うまい説明ができずに数年が経っていました。

 

でも今朝、不意に言葉にすることが出来たので、ここに書き留めておきたいんです。

 

それは電車の中で、今の部署の上司が「俺は担当しか信じない。管理職は嘘ばかりつく。」と言っている理由を考えていた時にひらめきました。実は今の部署の、前の上司も、前の前の上司も、そのまた前の上司も同じように管理職を信じず、必ず担当者が使っている資料や帳票を担当者本人と確認してからトップに報告していたんです。なぜ、上司達は判で押したようにそうなってしまうのか?と考えると、このトップと上司達の関係に問題があったのです。このトップが細かくて厳しくて、それはそれは精神的にみなさんギリギリになっていました。そのせいで、どうせ切り捨てられるなら自分が納得できるように細部まで自分で確認してた上で納得ずくで切られたいって無意識に思っちゃうみたいなんです。だから正確に表現するなら「担当しか信じない」んじゃなくて、「自分が担当になったつもりで確認したことじゃないと報告したくない」んです。

 

で、すごく時間と労力をかけて調べた事実を、本当はそんな細かいことを説明していたら役員とか取締役とかには細かすぎるんだけど、自分を落ち着かせるために痕跡として残してしまう現象が起こる。その痕跡のことを僕は「手垢」と表現していたんです。読み手には不要な手垢が、実はその人が頑張って調べて、頑張って考えた証拠としてトップに評価もされていたんですね。これでは成果主義は遠いです。日本の組織の生産性が低いひとつの原因が、正にここにあります。

 

そんなマイクロコントロールのトップ、日本には多いと思います。ところがマネジメントがなすべきは実は逆だと思います。複雑なことをシンプルに、シンプルに理解してより広い範囲で見て最適な判断をすることだと思います。なので、僕にコンセプトを教えてくれた同僚と、その時の仲間達の時代が早く来ればいいなと思っています。

 

 

 

 

ル・マン24時間レース

今年も見ちゃいましたね、ル・マン

全く疑いもせずにトヨタが勝つだろうと思ってみていました。日本時間の土曜日22時からスタートして、翌朝6時近くまで見て3時間程眠ってしまい、目が覚めるとトヨタがいなかったです。日曜の夜にまた見始めたらポルシェの1号車がユノディエールの入り口でスローダウンしていてロッテラーが相変わらず戦意をキープした鋭い視線でのろのろ運転しているから、これ何かあってもポルシェはピットまで帰れる仕様のクルマに仕上げていてバッテリーセーブモードが超優秀なの?という誤解をしてしまいましたが、やっぱりそんなことはなく、最後は止まってしまいました。

 

やっぱりクルマとか機械の信頼性って、膨大なデータとか多様な経験の積み重ねで作られるもので、熟成されるもんなんですね。トヨタも30時間の走行テストを7回しているとテレビで言ってましたが、本番の1回とテストの7回はやっぱり違う訳です。乗っている人、クルマを作っている人、応援している人の気持ちが載った時にクルマが耐えられるのか?それが人がレースをやる以上問われるということなんですね。人を乗せて走るクルマですから、そういう鍛えられ方をするのが自然なんじゃないかなとぼーっと見ていて思いました。

 

そこにいくとポルシェってやっぱり凄い。ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも、多くの耐久レースに車両が使われているから耐久レースというのを熟知している感じがする。強いという表現が多くの人によってされていますが、強さってそういう場数とか人の経験だったりする訳ですね。ドイツでインダストリー4.0という動きが進んでますが、ポルシェはそっちに舵を切っているのか、それとも未だに人の感覚を生かしているのか、、、きっとトヨタは、またル・マンに必要な強さを一生懸命に各種の数値に落として目標を設定して頑張ると思うんですよ。それに対してポルシェとか、ル・マンは出ていませんがアウディとかBMWといったドイツ勢はどうやって強さを得ているのか?知りたい所ですね。人の肌感覚とデータが融合してるんだろうな、きっと。

 

そうだとすると、日本のモノ作りは早晩全滅しかねませんぜ。トヨタ頑張れ。

さて、次は松山君の全米OPを応援しつつ会社に行かねば。

 

規定演技と自由演技に向けた心構え

築地市場の安全性の議論を見ていて、過去に自分が建材の営業担当時代に経験した深刻なクレームのことを思い出しました。詳細は言えないのですが、当時の業界水準に照らして妥当、もしくは少しレベルの高い仕事をして施工・納品したところ、後から「将来の世界水準を語る施設責任者」が納品先に登場し、我々の仕事の否定をはじめたのです。入札時点で設定された要件と、施工後に求められている要件が大きく乖離していることを丁寧に説明したのですが、その施設責任者の高ぶった感情は収まらず、製品の些細な瑕疵を列挙し始め、元請けのゼネコンを巻き込んで建物全体を受け取る受け取らない、つまりお金を払う払わないの話になって大きな問題になってしまったことがあります。あの高ぶった感情は、おそらく着任早々に自分の存在感を示したいという気持ちと正義感がミックスした高揚感だったんだろうなと今から見て思います。(その瑕疵に対する説明を当時の会社の技術トップが「原因を説明できない、だから対策もできない」とお客の前で放り投げてしまったことから、私はその会社に見切りを付けて転職することになったのですが、その話はまた別の機会に。)

 

この案件も公共施設だったんですが、築地の状況と良く似ているんです。後から任命されて前任者のやったことを少し批判的に点検しなければならない立場の人が、フレッシュな目で見て批判できることをできるだけ事細かに列挙して批判すると、こういう問題は簡単に作れます。本人は作っているつもりは毛頭ないと思いますが、客観的に見ると問題を作っていることになってしまいます。

 

世の中のお仕事にはルーチンなものとクリエイティブなもの、仕組みに落とし込んで効率を追い求めることに価値がある仕事と創造的に取り組んで新しい発想を生み出すことに価値がある仕事、フィギュアスケートで言うと規定演技と自由演技というのがあると思います。この二つの仕事に求められていることの違い、ルールや採点方法の違いが理解され、お互いに尊重されないままに同じ土俵で採点を始めてしまうと解決の出口は閉ざされてしまうのです。数学で言ったら解がない問題の解を探すような状態になります。問題を作ったご本人はとびっきりの難問に挑んでいる高揚感を味わえるのが厄介ですね。

 

食品の衛生管理に関して言えば、90年代後半に日本でもHACCPというアメリカのNASA発祥の管理手法が導入されています。HACCPはHazard Analysis and Critical Control Pointの略で重要な管理ポイントを作業工程の分析によって絞り込んで管理しましょうという思想の管理手法です。衛生管理という日常業務を仕組み化して規定演技に落とし込み効率よく取り組みましょうという考え方です。この考え方を元に、現在はセンサー技術が発達していますので食品の安全管理の手法自体は、プロ達の手によってかなりレベルの高いものになっていると思っています。この手法の部分に疑問符をつけるのは、よく勉強してからの方がよい気がします。

 

見ている人に向けたパフォーマンスは自由演技の領域で、やろうと思ったらいろいろな表現方法があり、対象者も多様なので、バリエーションの開発にはきりがない世界です。なので、そのルールと規定演技のルールを混同して、いつまでも100点満点の演技を探していたら結論は出ないかもしれないですね。

 

個人的には日本中の海や山や畑や水田で穫れた自然な食材が集まってくる市場の施設としては豊洲は立派な気がしますし、安全だと思ってよい状態な気がします。食材自体の汚染は現在も100%防げていないんじゃないかと思います。私たちはその可能性も納得して、自然のものをいただいているんじゃないんですかね?その納得の上であれば豊洲で十分だと思いませんかね。

 

小池さんに好感は持っているので、ぜひ行政のプロとしてスマートな決定をしていただきたいと思います。おそらく都庁にお勤めの方、築地市場の関係者、豊洲の関係者もみなさん都民ですから、早めに決めてあげることが本当の都民ファーストである状況だと私は思いますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人徳ってなんですかね?

人徳とか徳ってよばれるものの正体って何だろう?

そして、あの人(主に上司)には何故それが大事なところで感じられないのだろう?

 

そんなことを真剣に考える日が会社勤めをしていると3〜5年に1回くらい来ませんか?実は今はその時期になってまして、ここ一ヶ月くらい考えています。

 

一緒に仕事をしていて、誰かと信頼関係を作ろうと思ったら仕事でしてもらった以上のことを返すキャッチボールを続けるというのが常套手段なんじゃなかろうか?と思っているんですが、時々この人の良心を悪用するというか持ち逃げするタイプの人と一緒に仕事をすることがあります。私はそういう持ち逃げするタイプの人をバンパイアだと思うことにしています。


良心など、すぐに個人の経済的な事情に押し流されてしまう現代社会にあって、いかに良心を保ち、付加価値を加えた仕事のパスを回し、良いパスの受け手であり続け、よいパッサーであり続けるかは日々試されていると思います。特に会社のような経済的な合理性を追求する集団に所属すると、やがて個人の経済合理性を極大化することに腐心するバンパイアのような人が生まれるのは仕方の無いことかもしれません。そして、そのバンパイアは一人の人間の心の奥に産声を上げることもあるし、集団としてのバンパイア文化を生み出してしまい、その集団の中で他者と同じようにバンパイアとして生きるか、はたまた人間としての理性を保つかということを所属する成員一人ひとりに、仕事の判断の細部にわたって問いかけてくることもあります。これはこれで一つの文化なんでしょうけど、私はそういう空気を極力さけて今まで生きてきました。

 

必要があって、なおかつどこかで分かってもらえそうであれば、バンパイアと戦っても来ましたが、私の持っている十字架やニンニクや聖水では太刀打ちできないことも多く、そんな時は迷わず逃げることにしています。まさに「逃げるは恥だが役に立つ」と考えるようにして全力で逃げます。だって、仕事のアウトプットの大きさは「能力×やる気×考え方」という公式に表せるっていうじゃないですか?そして、この「考え方」のパラメーターは+(プラス)ばかりではなく−(マイナス)になることもあり得るのです。私から見ると、個人の評価の最大化を目指して人の仕事の成果を食いつぶす仕事の進め方は「考え方」として組織が本来目指すアウトプットに対してマイナスに働くように見えてしまうのです。だって、そういう「考え方」で仕事を押し付けられると、仕事に対してモチベーションが上がらないとか、気が進まない仕事を押し付けらている被害者意識とか、自分がやっていることが無駄に思えるとか、そういう負の空気が職場を覆って会社のためにならないじゃないですか?しかも、自らが頑張れば頑張る程に負のスパイラルを加速させてしまうという状態になるのです。これって組織としてダメですよね?

 

こういった状況に追いつめられて、精神を病んでしまう人が現れる現場を何度も目撃してきました。そしてそんな状況を見ると、私も滅入ってしまうんです。なので止むに止まれぬ気持ちで発生源のバンパイアに苦言を呈するとか、上司であれば相談の姿勢を示しながら気付いてもらう努力をしたりするのですが、これが難しい。価値観の問題ですからね。

 

そうした状況が目に見える形で自分の目の前に隆起した時に、自分がどう振る舞うべきか?という問題に関しては私としては、もう結論が出ています。まずは全力で逃げることを考える。これは異動や転職も含めて最大限に可能性を探ります。それが叶わない場合は「私は私の人生を生きている。」ということを会社でも意識することにしています。さっきの仕事のアウトプットの公式でいう「考え方」のところの判断軸を会社というか組織に合わせることができないのであれば、もう自分の軸を優先させてしまう。私の目指す所と会社の目指す所が同じであれば、そういう課題には積極的に協力するが、そうでないと自分が思う場合は、いち雇われ人として上位職者の指示に従うというドライなスタンスを貫くことにしています。スタンスを決めることで自分の精神の安定を守ることにしています。決めたスタンスに沿っているかを客観的にチェックする自分を出現させて守る感じですかね?もちろん権限に基づいた具体的な業務指示には従順に従います。雇われ人として。

 

厄介なのは、このバンパイアになった上位職者の性向に職場のみんなが気付き始めて、少しずつ仕事のアウトプットを出し惜しみ(というか出せないんですけどね)しはじめた時に、血液が不足したバンパイアが自分を見失ってのたうち回ることです。これは本当に厄介です。どういうコトかというと、多くの場合は、もし成功したら評価が高いであろう無茶な仕事に手を出して、成功した時は自分の手柄に、失敗したら部下や他人のせいにできる体裁を整え始めます。途中経過の報告も最大限、上へのアピールに使い始めます。こうなると、もう上司だと思ってはいけません。無茶な仕事を自分で作っちゃう訳ですから。私は、そういった課題を押し付けられそうになったら、熨斗(のし)を付けて押し返すか、押し返せない時は前述のスタンスを守って言われたことだけやる消極的な担当者を演じるようにしています。熨斗をつけて押し返すというのは、その課題を成果が上がりそうなおいしい仕事に見えるように一旦は仕立て上げて、そのバンパイア上司に「よし、この件は俺がやる」と言わせることをいいます。手柄を急いでいるので、バンパイアは細かい問題点には気付かないことが多いです。なのでこんなやり方がおすすめですね。

 

最初の話に戻って、やっぱり人徳っていうのは難しいですね。何なのかも分からないし、教えてあげられないし、自分で人との関係の中で掴むモノなんでしょうね。本当に難しい。でも、誰かが見ていて私のやり方から何かを学んでもらえるように、耐えながら続けて行こうと思っています。2017年現在。

偏頭痛 ふたたび

 偏頭痛が再び襲って来た。しかも夜中だったんだが、不思議なことに痛みで起きた時に頭の中の別の部分が、いま会社で置かれている自分の辛い状況のことを「なんでだろう?、なんでだろう?」ってものすごく淡々と矢継ぎ早に分析し続けていた。まるでその脳の部分は別の人格みたいにずっと痛がる自分のことをほっぽらかして、答えの無い壁に向かって「なんでなんだ?なんでなんだ?」って問い続けていて、思考が同じところをぐるぐる回るのではなくて結構明快に1つ1つの「なんで?」に答えを出してて、自分の無意識領域の博識っぷりと分析の深さに震えた。

 

もう1つ、このところストレスで呼吸が浅くなり、置きているのに無呼吸症候群の人みたいに呼吸を忘れ、心臓の動悸がして苦しくなるという状態を抱えており、頭の痛みを感じながら深呼吸しつつ再び眠った。それが午前4時。いつもの6時に起床した時は頭の頭頂部左側が、もう疲弊しきっており今日一日全く役に立たなかった。9時から久しぶりの会議に出たが、もう何やってるんだかって感じだった。

 

ここで簡単に自分の置かれた状況を書いておくと、昨年末までいた部署では申し分ない成果を叩き出し過分な評価を受けていた。仕事はこれまでの仕事人生でもちょっと記憶に無いくらい自分の価値観にフィットしており、一生の仕事を見つけたと思っていた。ところがである。年末で所属していた部署は半解体され、選抜特命部隊への転属を言い渡され1月に着任すると、実はその特命というのが全く会社のためにならず、上層部の自己満足を満たすために必要の無い仕事を脚色して報告するだけの、本当に唾棄すべきクソ仕事だったのだ。しかも近い使命を帯びた部署が同時期に乱立し、その中で全く持ってやるべき仕事を全員が見失って今を凌いでいるのだ。窓際なのか?と自問し続けて5ヶ月。ついに体調に異変を来す事態に陥っているのだ。

 

書きたかったのは、この後のことなのだが、そんな痛む頭を一日中抱えて定時退社した帰り道。「では、何を考えたら俺の脳は、この悩みを次の行動に昇華できるのだろうか?」と、別のことをいろいろと考えてみた。自分に出来る限りで、固執している対象以外のことに広げて、生き方を考えてみたのだ。駅からの30分程の道のりを歩いていて、ふと頭痛が消えたのは「自分が決めて、将来性を見込んで入社し、いろいろと教えて育ててくれた会社がダメになってしまったことが悲しいんだな。」と思ったら頭の中のモヤモヤがスッと引いてほどけて行くのを感じた。ああ、そうなんだな。と昨日、一晩中自問自答し続けていた自分の無意識が納得してくれたことを感じた瞬間だった。

 

俺の無意識は、結構いろいろなコトを知っている。だから俺に、ここにいたらダメだと教えてくれたのだと思う。諦めずに、ここでもう一度頑張って組織を変えてみたら良いじゃないか?と問いかけると、俺の無意識はダメだと言っている。なぜか?それは組織にぶら下がる人が多過ぎて、一度でも失速したら戻せないからだ。この感覚は前の会社を辞めた時に似ている。直感を大事にしてみようかなと思った。今もくそ仕事の中にも、心ある人たちはいて、現場のため、お客さんのために頑張ろうとしているんだけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道

今日の帰り道、夕日がとてもきれいで、去年までの生活では中々こういう時間に退社できなかったから贅沢なじかんだなぁとシミジミと感じ入ってしまいました。

 

この会社からの帰り道でこんな夕日を見るのはこれが最後かもしれない、そんな予感を感じながらの帰り道だったので、余計に美しい夕焼けでした。

 

私は、今の会社は転職でして、でも本当に良い会社で、惚れ込んで入って、ここで働くことに誇りも感じていたし、それなりに苦しい思いもしながら耐えて来たし、喜びも悲しみも挫折も達成感も教えてもらい、大きな仕事をさせてもらって本当に大好きな会社です。今もなぜこんな風になってしまったのか、信じられません。ひょっとしたら、昔からこうで、私が外ばかり見ていたから本当はこんなにドロドロしてるって知らなかっただけでは?と改めて考えてみたものの、あ、俺ってばこの会社の中心もしばらく定点観測してよく知ってる。ここ数年でこうなっちゃったんだと気付いて、やっぱり落ち込む訳です。

 

大戸屋のお骨事件や、出光の創業家と現経営陣の対立やら、大塚家具の御家騒動やら、企業ガバナンスに関わる問題が取りざたされている昨今ですが、何なんだろう?ということをしばし考えてみました。

 

【経済インサイド】お家騒動の大戸屋HD「お骨事件」とは…創業者未亡人と社長が社内で対峙 テレビドラマもびっくりの修羅場だった (1/4ページ) - 産経ニュース

 

出光・創業家の対立がヒートアップする事情 | 週刊東洋経済(ビジネス) | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

これって、どれもこれも多様になった価値観が小さな企業の中に押し込められ、そのひずみが表に出て来た事件に見えるんです。世代間のなだらかなギャップが、バブル崩壊から、リーマンショックなどの段階を経て少しずつ狭い空間に閉じ込められて断層に力が溜まってはじけたような、そんな事件たちです。今や政治もそんなモザイクになっていて、これだけ多様になったのに、多様性を尊重し合う気持ちは私たちに備わらないまま今日に至っている訳ですね。

 

それでも、今までのやり方でうまくいっていたベテラン経営者は今日と同じ明日を夢見て、明後日の方向に向かって采配を振るうんですね。で、自分たちの采配がどんな結果につながっているかなんて死ぬまで気付かずに得意顔で会社を去って行くんでしょうね。なんだか悲しい。まぁ、東芝の往時の経営陣のように、死ぬまで逃げ切れなかった人たちが、どんなことを考えているか?とか、すごく興味があるんですがね。

 

あ、言っておきますが私は東芝関係者ではないのでご安心を。

 

 

 

 

 

Apple ID のパスワードがいつの間にか変わっている?と焦った件

Apple ID のパスワードがいつの間にか変わっている?と思われる現象が発生。

それは4年程使い続けているMac book Air で一部のソフトのアップデートが行われず、再度手動でアップデートした際に起こった現象。お前の入力したパスワードは違っている!とApp storeもi tunesも言ってくるのだ。で、しまいには「パスワードをお忘れですか?」とまで聞いてくる始末。

 

パスワードには絶対の自信があったので、何らかのトラブルに違いないと思いFAQを見にAppleのHPに行くと自分のApple IDで、このHP上ではログインできるではないか?これは新手のフィッシング詐欺ウィルスにでも侵されたか何か?とにかくトラブルだ!と確信してサポートに電話。電話の先の、とても感じの良いお兄さんと格闘すること30分。ついにわかりました。

 

2ファクタ認証が悪さをしていたというか、旧バージョンのOSに残る2ファクタ認証との相性の悪さが原因でした。古いバーションのMacだとパスワードの後に、携帯とかiPadなどの別のデバイスに送られてくる2ファクタ認証の6桁の数字を追加で末尾に入力しないと認証されないという仕様になっているのだ。こんなの知らないよね?

 

同じ症状で困っている人を助ける備忘のために書き留めておきます。