ユトリとかサトリの何が扱いにくく感じるのかという問題について

長年、言葉にできずに苦しんでいたテーマについてようやく言葉にできた気がする。でも、ブログに書いてみると意外に言いきれていない気持ちが底の方に残っていることに気付いたりもするので、期待しすぎずに書いてみよう。

 

ずっと、自分でやってみずに分かった風な態度をすることがいけ好かない。その割に想定外のことが起こった時の慌て方が半端ない。そしてそれを他人のせいにしがち。自分の明らかな落ち度に気付けていない。など、この両世代に接するたびにいろいろなネガティブな感想を溜め込んで来た。もちろんポジティブな感想もたくさん頂いてきているが、ここでは触れない。これらのネガティブな感情を全員が全てもっている訳ではなく、みんな部分的にしかもっていなくて、この最大公約数にあたるポイントをどう表現したらいいだろう?って考えて来たけど、ようやく自分の中で納得できる言葉に巡り会えた。

 

それは「そのままの自分でいい、絶対に自分は変わらない」という気持ちがにじみ出ているところ。歩き方とか、生活態度とかに醸し出されていることが多いのだ。おそらく何かで学んだ「”上(の世代)にウケる”身のこなしマニュアル」の類いを厳守して装っているのだと思うが、歩き方とか返事とか、文書やメールの語尾とかいう何気ない部分に、「自分は絶対に変わらない」という主張がほとばしっているのが、私には受け入れられないのだ。だって無意識に出ているそのシグナルは彼の/彼女の本心ですから。

 

ま、でも、それでいいんだよな。若いヤツなんて。だから俺は割を食わない距離でそっと見守らせてもらうのだ。成長したいヤツ、変わりたいヤツだけが変われば良いっていうのは昔からそうなのだ。

 

 

でもそんな彼らも自分が得をするかもしれないことには、必要以上に敏感だ。そこが「あれ?自分のスタイルは変えずに守るんじゃなかったの?」って感じて、余計に許せないんだよ。教えてもらったら重宝なスキルは必死に聞くし、分からないと教え方が悪いと言わんばかりの態度だったりする。世の中、若いうちに理不尽に耐えて体得しないと一生つきまとう苦労もあるだぞって、若い頃にオジさんに教えてもらったんだけど、今はそれを「ああ、こういうことだなぁ」ってシミジミと感じるので、これってやっぱりユトリだとかサトリだとかって関係ないな。

 

ごめん、君たちもあのころの僕たちと一緒だった。扱いにくいのはお互いの背景がかけ離れているからなので、これからもうまくやっていこうな。距離をキープして。

 

 

 

 

 

目的地が見えていると奇抜な手も普通に打てる ドワンゴ川上さん恐るべし。

ドワンゴの川上さんのケイクスの連載の初回を、たまたま今日読んだ。

4年前の記事だ。

 

cakes.mu

 

川上さんがこの時にCTOを兼ねているという件と、「女子マネ弁当」の2つのテーマに同じくらいの衝撃を受けた。組織の決断というのは、大きい組織だと判断できるスキルのある人と判断できる情報をもっている人と判断できる権限を与えられている人の情報が共有されたところでエイヤー!となされるものだが、これ大きい会社だと中々共有されない。コミュニケーションの壁とか、各自のバイアスとか、色々な壁が立ちはだかる。一番早いのは、同じ人がこの3つの役割を兼ねてしまうことだけど、これって問題が業務の根本的な部分だと創業者でもないと判断できないよね。当たり前の判断を当たり前にしているんだと思うんだけど、それなりの規模の会社で、それができちゃうっていうのは、会社のあるべき姿というのがはっきり見えている人だからなんだよね。そこに驚いた。さすがって思った。

 

そしてその話の流れで「女子マネ弁当」。これもエンジニアの出社を促進するという目的が見えていて、その有力なソリューションだとおぼしきものを試してみたという、聞けば当たり前の決断なんだが、これもそこそこの規模の会社だとできないことが多い。そしてちゃんと出勤率10倍と数字で効果を抑えてる。無理に来させるんじゃなく自発的に来たくなる仕組みをつくるというのもセンスいい。こういう決断を、こういうスピード感で行っていく経営者だったら、日々の仕事は痛快だろうなと思って普通に楽しく読んでしまった。

 

もちろん、ついていくの大変そうだけど、ドワンゴには付いていける人が多いのだと思う。ちょっとうらやましい環境だ。

同僚のえり好み

同僚、特に自分より下の人間の好き嫌いについて、ふと考えました。それは隣の部署に配属された一昨年の新入社員を見て、イライラするから。その前の年の新入社員に対してはそんなこと無かったのに、この違いは何なんだろうな?と考えたのがきっかけでした。

 

よく考えると、何年かに一人づつくらい。主に後輩、時々先輩で許せないタイプの人が現れて、どうも自分の評価の中では彼らの価値観が引っかかっているようだと気付きました。

 

その価値観というのはひと言で言うと、他人のふんどしで相撲を取ること。でもちょっとニュアンスは違って、私のことを利用して成果を出すタイプの後輩のことは許容できて来たので、踊らされることが嫌な訳ではなくて、お手軽な成果を要求するタイプでなおかつ仕事を通して本人に成長する気持ちがないと見捨てたくなるようです。

 

この中にもわずかな違いで2種類のタイプがいます。経験不足で自分の成長の必要性に気付けていないタイプの人と、人には甘えるものだと教わって育ち、それ以外の人の使い方を知らないタイプの人がいます。これ、後者が中々厄介で、消費者気質をこじらせてしまって何も学べないでいるケースの人がいて、この場合は本当に学習機会が提供できないまま終わることが多いです。ここで言う消費者気質というのは、人から教わることはその効能とかアウトプットが最初から本人に把握できていて、意義を理解させてもらえないと頑張れない、つまりコストである自分の時間や労力をかけられないという習慣が身に付いてしまっている気質のことをいいます。

 

多少の無駄は学びには不可欠だと思えている人には、教えてあげられるし、その人の失敗をカバーしてあげたいと思うけど、消費者気質の人は、失敗した時に教えてもらった通りにやったのに失敗して教えた人の教え方が悪くてむかつく的なところに落ちていきます。これでは永遠に彼らの学びは発動しないのです。

 

本当に嫌いという訳ではなく、私はそういうタイプの人とは関わらないようにしている。過去の経験から、私の見る世界にはそういうバイアスが掛かっており、それは必要なバイアスだと思っているということです。そのオーラを感じ取らずに、今日も私の何かに依存しようと近づいてくる彼らに対して、私はイライラしているんですね。

 

彼女のおかげで気付けましたね。

登美丘高校ダンス部 振付師akaneさんの番組(セブンルール)を見た

不覚にも見てしまった。大阪府登美丘高校ダンス部の振り付けを担当するコーチのakaneさんの密着番組。そして不覚にも心動かされてしまった。誰かの頑張りにほだされて自分が何もしてないのに感動するなんて迂闊なヤツのすることだと信じて自分の人生を生きているのだが、今日は完全にやられた。

 

私は自分に挑戦し続ける人を美しいと感じるし、そうでない人生、そうでない時間の過ごし方、そうでない人との交わり、というのは自分の心の棚の中の下の方に置いてしまう。自分がそういう価値観の持ち主だということを改めて突きつけられた気がした。そしてそんな自分を追い込む毎日の息抜きがクッキーだというのも、すごくよく分かる。だってクッキーこそ不器用に突き詰め続けている人だから。人の心を動かすには、人の想像を超えたモノを突きつけないといけない。そのための積み重ねを自分を律して真面目にやり続けて到達することは大人にとっても子供にとっても非常に難しい。でもその素晴らしさを知って、厳しくも励まし支えてくれる人が近くにいたらきっと誰もが自分の壁を越えていけることだろう。それを知っているから青木崇高は本人も知らぬうちに涙を流したのだ。そういう本当の時間が、あの番組にはあって関西テレビ、やるじゃんって思いました。その前に登美丘高校の諸君がすごいんだけどね。

 

きっと登美丘高校ダンス部の子達は本当に部活が楽しいだろうし本当にヨソでは学べないことを身をもって学んでいると思う。宗教や思想団体じゃなしに、ああいう場所って作るのは本当に難しい。だから本当に彼女達は貴重な体験をしていると思う。でもできれば自分の身の回りの若い子達には味あわせてやりたいと思ったよ。あと、彼女達を社会で受け入れる大人達は彼女達のまっすぐ頑張る気持ちを受け止められないならせめて邪魔しないであげてほしいし、できれば受け止める姿勢だけでも魅せて挙げてほしい。そして卒業生のみんなは、そんな社会の現実を突きつけられても自分の心を信じて突き進んでほしいね。

 

心のねじ曲がったオジさんだけど元気をもらいました。ありがとう。

東芝について思うこと

多くの家電メーカーの中で、思い入れを語れと言われて一番語れないのが東芝なんですが、そんな私が東芝関連の本を私の読書量の中では比較的大量に読んでいます。(ページ数ベース、ムーちゃん肌感覚による)何故だろう?大鹿さん、大西さん、児玉さんという名うての経済ライターの皆さんが本気の取材を元に書き付ける迫力もさることながら、これが日本の本格的な敗戦の始まりだからだと思います。この事件が先の大戦で考えるとミッドウェーに相当する気がするんですね。

 

ちょっと大げさですが、先の大戦をイメージでざっくりで恐縮ですが世代論として理解すると、日清日露を乗り越えて成功体験を伝え聞いた世代が日中戦争をだらだらと続け、そのだらだらが示唆するものを深く考えないまま、もしくはあるものは深く考えつつもその状況を利用して世界での日本の立ち位置を優位にしようと画策し、気がついたら戦争を知らない世論や政治を騙していたつもりが乗せられて、引くに引けないまま破滅に突き進んだ戦争だったと思うのです。誰も悪くなかったし、見えていないのも無理は無いです。国家全体を世界情勢の中で細部まで見通すなんて、当時の世界でもできていた人はほとんどいなかったはずです。でも、何らかの決断をしなければいけない彼らは保身とすら気付かない無意識の防衛本能でアメリカとの開戦に踏み切るんですよね。勝てないと頭で分かっていたのに。

 

最初に挙げた3者の本と雑誌や新聞やテレビの報道と、私が培った人を見る目で考えて、これって本当に経済戦争の終焉を告げる出来事であり、後にも続く企業がまだ出てきそうだという(これからクルマのパラダイムシフトが始まるっしょ)ことを考えてミッドウェーかなぁと。経営者の資質不足は批判されることがあっても、東芝の歴代経営陣の判断自体は間違っていたとは言い難いものだったことが確認できました。どこが決定的な判断ミスで、どこでなら後戻りできたか?というポイントに絞って読んだんですが、そんなポイントは無かったですね。

 

ただ1つ、私の観点で言わせていただくと守るべき理念/ビジョンの不在だけは指摘しておきたいのです。彼らは何を目指して何と戦い、どこにたどり着いたのか?それが極めて個人的なものに見えてしまうという点で経営者としての資質については言いたいことが残るかなと思います。でも本当にこれからそういう経営者やリーダーが増えてくるから気をつけましょうね。

 

先の大戦の世代論に戻ると、自由を謳歌した明治生まれ大正育ちの大人は徴兵されずに生き伸びました。苦労をしたことは間違いないですが、それでも戦後を見ることはできた訳です。でも大正生まれの男子は、ほとんどが戦後を見ずに亡くなっている訳です。さて、僕には平成が大正が似通って見えて仕方ありません。自分の子供も平成生まれなので、彼らが幸せに人生を生きられるようにもうひと働きしたいなぁと思っています。

 

自分で決めたい

ちょっと前に、こんな記事を読んで改めて気付きました。

 

www.advertimes.com

 

ネットのオススメ機能に甘えて、私たちは少しずつ自分では決められないことが増えているのかもしれません。記事としてはモノの作り手や売り手として、オススメ慣れした若者達に響くコミュニケーションを提案して締めくくられています。アドタイだから仕方ありませんが。

 

私としては、この記事の見えていない部分に着目しました。決められなくなっている反面、私たちは私たちが本当に大切にしたいモノは、自分で考えて自分で決めているのではないでしょうか?ネットのオススメに甘えて選択の手抜きをした分、愛する人と過ごす時間の楽しみ方とか、自分が心から楽しめるモノやコトの選択に私たちは本気を傾けることができているのかもしれません。

 

実はこの、私たちが本気を傾けられるコトに出会えることって本当に貴重です。少し気を抜くと、あっという間に何でも無いことに気を取られて、恐るべき早さで時間は流れていきます。光陰矢の如し。だから私は、この記事のライターの方には申し訳ないのですが、オススメには極力乗らない主義を心の根っこで育てています。特に買い物に関して、以下の三つを心がけています。

 

1つ目は、自分の定番を決め、それを選ぶこと。自分が自ら、ある時期に本気で評価して決めたモノやコトに対して、その過去の自分を信じて選択の労力を節約することを心がけています。それじゃあ保守的でつまらないのでは?と言われるかもしれませんが、買い物を楽しむより大切にしたいことが今の私にはあるのです。そんな集中したいものに集中したいのです。

 

2つ目は売り込みは聞かないこと。相手の売りたい気持ちを素早く察知して、それが売り込みだと気付いたらすかさずブロックすることです。私はセールスマンの売り込みは話半分、できれば三分の一くらいしか信じない気持ちで耳を傾けています。私もかつてはセールスマンだったので、こんなことを言うのは後輩諸君に対して心苦しいのですが、どうしても何かを売りたいと思っているプロが創意工夫して本気で攻めて来ているんですから、そのオススメに普通の人がクラクラするのは当然です。ですから私は売り込みだと感じたら、まずは買わないことを心に決めてセールスマンの話を聞くようにしています。それでも、こんな自分を口説いて買わせてほしい!って思いながら聞きます。そんなブロックを突破してくるセールスマンに対しては敬意を表して、騙されてもいいという覚悟で買うようにしています。

 

3つ目は、買うという決心の前に「本当に欲しいの?それが?」と自分に問いかけるのを習慣にしています。実はこのところ長らく売り買いの駆け引きをしていなかったので、この習慣を忘れた状態でネットプロバイダの契約を乗り替えてしまい、思わぬ出費をしてしまいました。家計を同じくする家族に申し訳ないと思うものの、セールスマンの献身に応えてあげてもいいかなって思って決めたことなので、それほど深刻な後悔はしていません。でも、この3つ目の習慣が失われていたことに関しては、きつく自分を戒めたいなと思っています。

 

そして最後に、今も会社で働いてモノやコトを売ることを仕事にしている自分がいる。だからこそ、自分が売るモノやコトは、誰かの本当に欲しいモノやコトであって欲しい。そうするために開発から関わりたいし、お客様の手に届くその瞬間も見届けたい。一緒に作り上げ、お客様に届けてくれる仲間と連帯したい。心からそう思っています。そして、自分のことに関して言えば、それだけが今、私の心からの願いだったりします。

 

 

労働はどこに立っているか

その昔は意識することすらなかったが、内田樹さんの『困難な成熟』を読んで「働く」ということについてちょっと考えたのでメモしておきたい。

 

まず著者の表現そのものでは無いけど、私が読んでイメージした図を残しておきたい。内田さんは労働の対義語を消費だと書かれていて、これが秀逸だと思ったので、私の理解を図にした。(この説明を内田さんは丁寧になさっていて非常に味わい深いのだが、私の拙い表現力ではこんなプアな図になってしまうことをお許しください。)

 

原始、人の生産量は消費量に対して不足しがちで、それを工夫して制御/管理することで人は不足を補おうと努力しつづけてきた。この全体が「労働」で、だから内田さんは労働の対義語を消費と書かれたのだと理解した。(すでに違っているかもしれないが。)

 

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大昔は生産が不足、その後、管理/制御が仕事に加わって消費は満たされてきた

 

 

 

それで制御/管理が進んで生産量が消費量を上回ると、需要不足を埋める知恵を絞ることも労働の中に入ってきます。この本では皮肉を込めてジャガイモの皮むき器がジャガイモの皮と同じ色にしたら、皮と一緒に皮むき器も捨てられて皮むき器が売れたという例が出てきます。こうした需要不足を埋める仕事を営業とかマーケティングとか言うんですが、労働の本質がこちらだという見解に異存はないです。

 

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制御/管理で生産量が増えると需要不足が発生

 

 

で、この制御に関するお仕事は疲弊しちゃうんで、「生物として生きる知恵と力が高まる環境」、つまりできるだけ自然に近いところで働いて下さいというアドバイスがなされています。自然に近いところのヒントとして人は「価値のあるものをたくさん作って下さい」という仕事には疲れないというアドバイスも書かれています。価値があるというのは消費される健全な需要があって、我々の労働の成果物を「ありがとう」と言って受け取り使ってくれる人がいる場合だと私は読みました。

 

この一連の説明を上のような図とともに理解したところで、ものすごく最近の自分の仕事に対する徒労感とか疲弊感の理由が腑に落ちて、このエントリーが書きたくなったのです。

思えば、今の企業で求められている仕事って、この需要不足を埋めるための営業であったり、マーケティングであったり、それらをやっている人たちを管理するための仕事だったりしますよね。そしてその埋め方の高度化を競う形で現在の企業間の競争はなされている。例えばAmazonのサービスは需要と巡り会いにくい、需要のグラフで並べるとロングテールと呼ばれる位置づけにあるニッチな商品を、時間と空間を超えてユーザーに届けるサービスだったりします。

 

過去には需要不足の埋め方は、貿易だったり、植民地の獲得だったり、民主化の広がりによる人々の消費意識の変化であったりという手法がとられてきました。でも今は、ITを用いたスマートな需要と供給のバランシングシステムが誕生しつつあります。メルカリとかZOZOTOWNも、こういう種類のサービスですし、Uberだってそうですよね。こういうパラダイムシフトが起こっているのだなということに気付きました。

 

バブル崩壊前まで、日本が得意だったのは制御と管理の高度化競争。その後、iPhoneが出て来た時はモノ作りの発想力で日本が負けたのだと認識していました。だから、その文脈で競争力を高めようと多くの企業がイノベーションを声高に叫んでいるように見えますが、需要不足の埋め方の高度化を競うという切り口で考えてみたら、まだ日本の会社にはやれることがある気がします。

 

隙間の需要の発見とか、遠くの需要に届ける手段の開発とか、組み合わせによる需要の創出とか、人の欲望を研究したら世界のどこにいても着眼点は見つかる気がします。

 

本田宗一郎本田技術研究所を人の研究をするところだと言いました。松下幸之助は松下は人を育てる会社だと言い、PHP研究所も創設をしました。三洋電機の井植はライバルはお客様の心だと言い、日本の経営者は消費者の心とダイレクトに向き合ってきました。

 

今の日本企業は、その原理原則に立ち返れていないだけなんだなと思いました。