「2番じゃダメなんですか?」に自分ならどう答えたか?

もう随分と昔のことに感じますが、かつて事業仕分けというのが民主党政権下で行われ、某スーパーコンピューターの事業に関して世界一を目指して予算が確保されていた件で「2番じゃダメなんでしょうか?」という質問をされた国会議員の方がいました。その発言シーンはテレビでもネットでも繰り返し取り上げられました。

 

実際に世界一とまでは言わなくても、競争環境の中で1番を目指している人は多くいて、特に仕事で1番を目指して生存を賭けた熾烈な競争を戦っている人というのは結構な数いると思います。例え自覚は無くても、地域で1番とか、ある業態や業界でのサービスが1位と評価されないと2番目以降はお客さんに思い出してももらえないというのは良くあることなので、みんな競争していれば何らかの1番を自ずと目指しているのでは?と思っていました。そんな当然だと思っていたことに、最も1番にこだわっていそうな人(そんなイメージのある人)の口から、この質問が投げかけられたことで改めて、このコトに対して考えるきっかけをもらった気がしました。「2番じゃダメ、1番を目指そう」という心のあり方の何が大事なんでしょうか?

 

僕以外にも多くの人が引っかかったようで当時はツイッターやブログで、多くの反響がありましたが、読んでみるとどれもこれも、この議員さん個人に対する感情に力が入ってしまい、僕が納得できる「2番じゃダメな理由」を客観的に答えている人が見当たりませんでした。個人への評価は切り離して、「2番じゃダメ?」にキレッキレの反論ができない自分にモヤモヤしていた僕は、その後も答えを探し求めました。ずいぶん時間がかかっちゃったけど、ようやく言葉にできたので今日は書きます。

 

まず、1つ目の反論は、既にちょっと書きましたけど2番目以降は人の印象に残らないからというものです。ただ、こういうアプローチって提供する側というか選ばれる側の切迫感というか、切実さに同調してくれる器量を持った人にでないと、理解してもらえない可能性があるなぁと思いました。あまり頻繁にお目にかかることは無いですが、勉強でも仕事でもスポーツでも負けなしという挫折知らずのスーパーエリート、もしくは自称スーパーエリートの勘違い野郎に「ふーん、そういうもんなんだ。下々の気持ちはよく分からんけど」と言われたら、説得しきれない論拠だなと不安が残ります。それと、この事業仕分けでも言われていましたが、事業や活動そのものの価値を否定したいというアプローチの人に対してもちょっと弱いと思いました。「別に印象に残らなくても良いじゃん」という関心すら薄めた上辺だけの丁寧な態度に、感情的にならずに応戦するためには、もう少し別の手を用意した方が良さそうです。

 

そこで僕は身近な”2番じゃダメな例”を探してみました。それが袋麺のインスタントラーメンである「ラ王」と「正麺」の差です。この両者は私の調べでは5袋入りで価格に100円程度の差があります。そしてその状態が、長年維持されており、消費者も流通業者もその価格差を認めて、各々の事情とかニーズに応じてラ王と正麺を選び分けているように思います。私の味覚で特に麺の質感に注意しながら味わうと生麺に近いおいしさを備えているのは圧倒的にラ王です。正麺はラ王に近づけて類似品として磨き込んでいる印象があります。本当は、開発者に聞いたらそうではないのかもしれないですが、発売もラ王が先だったので、後から発売した正麺は、どんなに意識的にラ王のことを見ないようにしていても、ついつい見てしまうのです。コンセプトを後追いしてしまうことを宿命づけられるのです。また、先行して特許を抑えられてしまい、そういった制約も後発の商品にはつきまとっていると思います。一方で、ラ王を開発した人たちのメンタリティを考えてみると、きっと生のラーメンの麺がおいしく感じる人間の感覚って、どこから来ているんだろう?っていう研究を自分たちで想像力を広げながら、かなり深く広くやったんだと思うんです。小麦の香り、スープとの絡み方、歯触り、唇との接触感、たまごの主張、これらをインスタントで再現して、お客さんに「おいしいっ!!」って驚いてもらうためにはどういう商品にしなければいけないか?って考えたと思うんです。この両者の差が、どれだけ歴然としているかは、モノ作りに携わる人とか、自分自身も常に勝負している人には、きっと分かると思います。

 

この僕が2番目に挙げた理由も、きっとエリートとか活動そのものをつぶしに来る人には伝わらないと思うんですが、それでも僕はこの理由を採用しようと思います。それは、この差が分からない人には僕がやっていることの評価なんて一切してほしくない!ってきっぱり思えるからです。これが理解できない人は、その瞬間は何かの理由でエリートだったり、僕を評価する側の高い席に座っているかもしれないけれど、必ずや、その場所に居続けることができない人だと思います。これは世の中の真理です。だって、その人は何かの競争で負けた時に勝ち方を1から創造するということの偉大さに経緯が払えない人なんです。長い人生がそれでやり過ごせるとは、僕にはとても思えません。

 

なので、最低限、その人が話し合う値打ちのある人かを見極められるという意味で、こんな反論をしてから切られるなら切られたい。価値の無い人とそれ以上関わってつまらない思いを積み重ねたくない。それが、ああいう場で、あのように言われた時に僕が取るべき態度なんだと確信しました。

 

いま悩んでいる誰かの参考になったらいいな。