あのころ、外国の町並みやお店がおしゃれに見えた理由

僕の子供時代は80年代。あのころ、テレビや写真で見る外国の町並み、外国のお店、外国のクルマは何を見てもおしゃれでした。特に今日書いておきたいのは、いろいろなおしゃれさの中でも特にお店のおしゃれさがどこから来ているのか?という話です。

 

実は私の生家は、三つ程の商売を掛け持ちして経営してまして、子供ながらに自分のところの店がおしゃれじゃないなぁと思っていました。経営者である親や祖父母に、もうちょっとおしゃれにできないの?っていう進言をしたのは一度や二度ではありませんでした。何回かに一回は例えばカーテンがリニューアルされたり、棚が追加になったり、品揃えがカラフルになったりという程度ではありますが、私の提案が採用されるのですが、やっぱりおしゃれな感じが出ません。

 

思えば、当時、私の生まれ育った田舎町にあったお店で、おしゃれと呼べたのは、都会帰りのお姉さん(おそらく土建屋さんの愛人)の経営するブティックとか、都会に本店を持つお店の夏場の避暑地営業的な支店とか、やはり都会帰りの人が営むログハウス風の喫茶店くらいでした。その後、社会人になってから「田舎で流行る(長続きする)飲食店を作るには、すべからくログハウス風にすべきだ」という説を聞いたのですが、その説を裏付ける宇宙の法則っぽいモノが、たった今、私の頭の中でつながったのですが、とりあえず当初の論を進めます。

 

それらの一見おしゃれに見える店舗にも実は違和感を感じていまして、なんか観光地にある似たお店を、自分なりに真似した劣化コピーに見えて、むしろちょっとダサく見えたものでした。その観光地のお店は、やはりそれなりに本気で作り込まれていておしゃれでした。でも、それらも海外のお店の店構えの前では、やはり安っぽい。

 

この差をマーケッターになってから、ようやく研究しだしたのですが、やはり、素敵なデザインの裏にはフィロソフィーがあり、そのフィロソフィーが妥協無く形に落とし込まれると魂が建物やお店の陳列棚の細部に宿るのです。東京に出て来て20年が経って最近ようやく、都内で長らく営業している老舗をみて、これだとひらめくものがありました。それは料理でも、お菓子でも、包丁でも、紙でも、傘でも、商材は何でもいいのですが店を守っている人が何か大事にしているフィロソフィーが店にこもっているのであれば、その店は何かの真似ではない、普遍的なおしゃれさを発しているということを感じられたのです。そして、そのフィロソフィーは人から人に受け継がれ、受け継いだ側の人も、その精神を磨き続けることを要求される。そういう守るべきコンセプトがあって初めておしゃれさというものが醸し出されるのだということを、ひょっとしたら知っていたのかもしれないけど、ようやく言葉として表現する対象として認識することができるようになりました。

 

外国のお店がおしゃれに見えるのは、外国、特に欧米の人たちがフィロソフィーを大切に生きているからです。だから彼らが営むお店は、必然的におしゃれになるのだと思います。

 

フィロソフィーって何回も言いすぎましたね。そして、この文書、私が子供のころから目にし続けて来たモノ作りを語る本たちでは、よく見る表現になりすぎました。心を先人から受け継ぐのが大事だっていう話に過ぎないです。年寄りが好きなあれです。でも本当に言いたいことは、その差がちゃんと体得、いろいろな経験を通して、自分の中で腑に落ちたこの感覚の話です。でも、今日は眠いのでこの辺にしておきます。ログハウスが流行る理論とあわせて、また次回以降。