『修羅の門』というマンガについて

修羅の門』というマンガがあった。それは私が中学生のときから大学生までの間、愛読したマンガだった。連載誌の月刊少年マガジンを当時の私は、このマンガを読むためだけに購読していたと言っても過言ではない状態で、当時の私は一ヶ月の時の流れを、このマンガを読むことで刻んでいた。そんなマンガに再びであったので、そのことを書き記しておきたい。

 

このマンガの雑誌連載当時も沢山の格闘技マンガはあったが、『修羅の門』は一線を画するリアリティがあり、伏線の回収も当時の私には巧妙に見え、何よりキャラの一人ひとりがその人生を背負ってそこに立っており、マンガにありがちな光線が出るとか死んだキャラクターが生き返るということがなく、ひょっとしたら修練次第で登場人物のような技が繰り出せる自分になるのではないか?とすら私に思わせた。こうした奥深く自分の肌感覚に近い世界観が私を魅了した。特に今から考えると、当時の私の胸に迫ったのは死が死として一度きりの儚さをそのままに描かれていたことだったのではないか?その事実が深く深く、私の心に「自分の命の使い方」を問うて来たものである。人に悟らせる真に名作である。(まぁ私が浅いのかもしれないけど。)

 

さて、それから20年が経ち、私はこのマンガと再び出会った。作者は2010年に連載を再開していたのだが、その再開したものを私は月刊マガジンで読むこと無いまま終了した。ところが、その総集編が発売され、それをコンビにで見つけ懐かしくなり買ったのだ。読んだことの無い2010年以降の『修羅の門』を読んで、またあのころのキャラ達に会いたくなり、私は中古で全巻を取り揃えた。その金額およそ千円、激安である。

 

改めて読んでも、主人公の陸奥九十九は私に「命の使い方」を問いかけて来た。20年経って、衰えることと道を求めることのせめぎ合いの前に、やはり自分の命の儚さを感じた。つまり自分が目指す頂きに到達できていないこと、その頂が見える位置にもたどり着いていないこと、自らの無力を改めて痛感したのだ。

 

実はその不甲斐ない現状の原因の一端は、陸奥九十九という大馬鹿ものの生き様を作者の川原さんと一緒に想像してしまったことにある。思えば過去の人生の大きな岐路で、どうしても自分らしさというか、自分の魂が喜ぶ道を選んでしまって器用に生きられないのだ。

 

かといってこれまでの私の人生に全く後悔は無い。むしろ、陸奥九十九的な生き方ができてきているから後悔が無いのだ。(むろん私はあんなに傍若無人に道を切り開く力はないが。)そして20年あれば1回や2回は死を意識して渡った修羅場もある。生きるということはそれ自体が戦いなのだ。戦いから逃げず最後までやり抜く力を、こうした人生観の大切な部分を、私はこのマンガからもらった。そんな人間がここにいるということを書き残して、例え届かなくても作者に心から感謝の意を表したいと思って今日は書いている。川原さん、本当にありがとうございました。

 

おかげさまで目指していたのとは別の頂きですが少し見えてきました。