労働はどこに立っているか

その昔は意識することすらなかったが、内田樹さんの『困難な成熟』を読んで「働く」ということについてちょっと考えたのでメモしておきたい。

 

まず著者の表現そのものでは無いけど、私が読んでイメージした図を残しておきたい。内田さんは労働の対義語を消費だと書かれていて、これが秀逸だと思ったので、私の理解を図にした。(この説明を内田さんは丁寧になさっていて非常に味わい深いのだが、私の拙い表現力ではこんなプアな図になってしまうことをお許しください。)

 

原始、人の生産量は消費量に対して不足しがちで、それを工夫して制御/管理することで人は不足を補おうと努力しつづけてきた。この全体が「労働」で、だから内田さんは労働の対義語を消費と書かれたのだと理解した。(すでに違っているかもしれないが。)

 

f:id:Mooning_papa:20180113113025j:plain

大昔は生産が不足、その後、管理/制御が仕事に加わって消費は満たされてきた

 

 

 

それで制御/管理が進んで生産量が消費量を上回ると、需要不足を埋める知恵を絞ることも労働の中に入ってきます。この本では皮肉を込めてジャガイモの皮むき器がジャガイモの皮と同じ色にしたら、皮と一緒に皮むき器も捨てられて皮むき器が売れたという例が出てきます。こうした需要不足を埋める仕事を営業とかマーケティングとか言うんですが、労働の本質がこちらだという見解に異存はないです。

 

f:id:Mooning_papa:20180113113050j:plain

制御/管理で生産量が増えると需要不足が発生

 

 

で、この制御に関するお仕事は疲弊しちゃうんで、「生物として生きる知恵と力が高まる環境」、つまりできるだけ自然に近いところで働いて下さいというアドバイスがなされています。自然に近いところのヒントとして人は「価値のあるものをたくさん作って下さい」という仕事には疲れないというアドバイスも書かれています。価値があるというのは消費される健全な需要があって、我々の労働の成果物を「ありがとう」と言って受け取り使ってくれる人がいる場合だと私は読みました。

 

この一連の説明を上のような図とともに理解したところで、ものすごく最近の自分の仕事に対する徒労感とか疲弊感の理由が腑に落ちて、このエントリーが書きたくなったのです。

思えば、今の企業で求められている仕事って、この需要不足を埋めるための営業であったり、マーケティングであったり、それらをやっている人たちを管理するための仕事だったりしますよね。そしてその埋め方の高度化を競う形で現在の企業間の競争はなされている。例えばAmazonのサービスは需要と巡り会いにくい、需要のグラフで並べるとロングテールと呼ばれる位置づけにあるニッチな商品を、時間と空間を超えてユーザーに届けるサービスだったりします。

 

過去には需要不足の埋め方は、貿易だったり、植民地の獲得だったり、民主化の広がりによる人々の消費意識の変化であったりという手法がとられてきました。でも今は、ITを用いたスマートな需要と供給のバランシングシステムが誕生しつつあります。メルカリとかZOZOTOWNも、こういう種類のサービスですし、Uberだってそうですよね。こういうパラダイムシフトが起こっているのだなということに気付きました。

 

バブル崩壊前まで、日本が得意だったのは制御と管理の高度化競争。その後、iPhoneが出て来た時はモノ作りの発想力で日本が負けたのだと認識していました。だから、その文脈で競争力を高めようと多くの企業がイノベーションを声高に叫んでいるように見えますが、需要不足の埋め方の高度化を競うという切り口で考えてみたら、まだ日本の会社にはやれることがある気がします。

 

隙間の需要の発見とか、遠くの需要に届ける手段の開発とか、組み合わせによる需要の創出とか、人の欲望を研究したら世界のどこにいても着眼点は見つかる気がします。

 

本田宗一郎本田技術研究所を人の研究をするところだと言いました。松下幸之助は松下は人を育てる会社だと言い、PHP研究所も創設をしました。三洋電機の井植はライバルはお客様の心だと言い、日本の経営者は消費者の心とダイレクトに向き合ってきました。

 

今の日本企業は、その原理原則に立ち返れていないだけなんだなと思いました。