イチローの引退会見を見て

イチローの引退会見が面白くて、フルバージョンをYouTubeでじっくり見ました。

リアルタイムは起きていられなかったので翌朝ネットで断片を見て、あまりの興味深さに5:00に寝床から起き出して、真面目に見ました。

【全編】イチロー選手が引退会見「後悔などあろうはずがない」(2019年3月21日) - YouTube

 

いろいろな気持ちが渦巻いた非常に刺激的な会見だったから、色々な人がコメントしているけれど、誰一人として包括的にコメントできないという事実がイチローという存在の大きさを雄弁に物語っていると思う。北野武くらいの天才が言葉少なめにコメントして、初めて全体像らしきものに触れられているというスケールだった。それはイチローの語ったことが、言葉が少ない方が雄弁であることを許された北野武のような存在でないと、その本質に近づけない概念であるということを意味していて、これは本当にすごいことだと思う。記者さん達が質問しにくかったことも納得である。

たけし、イチローの引退会見に感心「これくらい偏屈じゃないと…」 - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)

 

凡人の私が何かを表明する必要も、その意味も、何かを表現できる自信もないけれど、あの晩にイチローが記者達の質問に対してそうしていたように、私もこの渦巻く思いを今、言葉にしておかなければならない、その苦労を避けてはいけない、いや言葉にしてみたい、という不思議な感情が抑えきれず書き残しておこうと思う。

 

会見から私が直接得た感想は2つだった。ひとつは”今への集中”がイチローのあらゆる行動や思想に徹底されていることの凄さだった。数々の記録を打ち立てた最盛期へのコメントより、現役選手として生き残ることに集中したここ数年の選手生活へのコメントの熱量の何と高かったことか。我慢が苦手で我慢のない生活をしているというのも、今への集中を最大化するための習慣なんだろうと思う。そして今への集中の基礎となっているもの、野球への愛やオリックス時代の学びといったものには、”集中している今”へ向けるのと同じ熱量がコメントに注がれる。このコメントへの思いの量を感じるだけでも学びが大きい会見だった。イチローというものを形成している何かの形が、たくさんのコメントの中に伏流する彼の熱量から浮かび上がる思いがする。その”何か”は”集中した今”の膨大な積み重ねで創られて来たのだということが伝わってくる。

 

もうひとつの直接得た感想は、天才は飽きやすくもあるということだ。これは北野唯我さんの『天才を殺す凡人』で知った知識だったりもするのだが、意外なことに天才は飽きやすい。それが確認できた。ゆっくりしたいとか全然思わないとか、重複になるけど、がまんができないという自己認識も、それを物語っていると感じた。

 

コメントから直接にはそんな2つのことしか感じ取れなかったけど、言葉になっていないことで印象に残ったのがイチローの「何かが来るのを無防備に身をさらして待っている雰囲気」だった。それは記者からの質問を待っているようでもあって、実は「自分の中から何かが沸き起こって来るのを待っている」という姿だったんじゃなかろうか。そしてそれを『20歳の自分に受けさせたい文章講義』で古賀さんが言っていたぐるぐるを言葉にする作業を自分の頭の中でして、言葉にしていたんだと思う。

 

これは会見後にしばらく考えて気付いたことなのだが、私がイチローのコメントから感じた「集中」と「飽きやすさ」というのは対極にある概念だ。飽きっぽいヤツが集中を維持するっていうのは、いくら好きなことでも簡単にはいかない。この2つの相反する要素をイチローの中で統合しているのが、この無防備に起こった出来事を受け止めて、それに対して自分の中で隆起した何かで迎え撃つという心の作用なのではないかと、ふと納得した。それは俗に横綱相撲と例えられたりするような心の構えのことではないか?イチローはその構えを色々なものに対して取り続け、そしてそれを自らの中に隆起してきたもので処理している、そんな”後の先”みたいなサトリの境地をあの晩に私たちは見せられていたのではないかと思う。記者会見という体裁をとりながら。

 

会見の最後の質問で、アメリカに来て外国人になったことで弱い立場の人を慮るようになったと言っていたけど、あれも無防備に体験して、今への集中を積み重ねて得た天才の気付きだったんだなぁと。でもそういったことなら、どこまで近づけるかは分からないけど、僕らにも少しはマネができるんじゃなかろうか?とも思った。あれをみんなが少しずつでもやっていけたら、世界は少しずつでも確実によくなっていくなぁと、そんなことを感じた。